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名古屋地方裁判所 昭和62年(わ)860号 判決 1987年12月18日

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実は

「被告人は、昭和六一年三月二九日ころの午前一時一五分ころ、名古屋市中区栄五丁目一番一三号朝川胃腸病院前路上において、タクシー運転手A(当四六年)がその運転するタクシーを信号待ちのため停車させるや、先に同人が自己を乗車拒否したとして憤激し、同車運転席に着座している同人に対し、「なんでとまらんのだ、甲野会のDの若い衆を知らんのか。」などと怒号し、その顔面を手拳で多数回にわたり殴打し、さらに腹部を数回足蹴にするなどの暴行を加え、よって、同人に対し全治約三週間を要する顔面打撲傷、右眼球挫傷、右眼結膜下出血の傷害を負わせたものである。」と言うものである。

第二判断

一  証人A、証人B及び証人Cの当公判廷における各供述、医師新居均作成の診断書並びに司法警察員作成の実況見分調書(但し、説明中の黒紙貼付部分を除く)によると次の事実が認められる。

①  乙山タクシー(株)のタクシー運転手であるAは、タクシー運行中に公訴事実記載の日時・場所において同記載の暴行及び傷害を受けたこと、右暴行は運転手席に座ったままの状態で初めは運転席の窓越しに受け、次いで運転席のドアを開けられて受けたものであること、暴行の原因はAがタクシーを運行中酔っている模様の右暴行犯人がタクシーに手を挙げたのに停止しなかったことにあること

②  暴行犯人は暴行に際し「なんで止まらんのや。」、「乙山タクシーのくせに、甲野会のDの若い者を知らんのか。」と言っているところ、Dは当時甲野会の本部長をしていて売り出し中の男であったこと

③  犯行当時は深夜ではあったが付近の照明などから犯人の顔などを充分確認できる状況にあったこと、Aは、犯人について、公訴事実ほどの暴行を受けたのであるから頭にこびりついているとして、パンチパーマを掛けた一見やくざか暴力団員のような恰好の男である、唇が丸く一寸突き出た感じである、そんなに大きな身体ではなかったが割にがっちりしている風であった、口許に特徴がありそれを一番覚えていると述べていること。犯行は極く短時間に行われ、その直後に犯人は立去り、Aは立去るその後姿を見失っていること

④  Aは被害直後に犯人の処罰を求めて警察へ被害申告をしているが、警察の呼び出しに応じて犯人の面割りをし被害事実について供述をしたのはその後四か月を経た昭和六一年八月に入ってからであり、被告告人の面通しをして犯人と被告人との同一性の確認をしたのは被害後一年を経た昭和六二年四月になってからであること。面割りにおいてAは、提示された二〇枚程の写真を見ている途中で被告人の写真を選び出したものであるが、この二〇枚ほどの写真の中にはパンチパーマの人物は入っていなかったこと。この写真の中には当時警察で把握していたDの若い衆を一〇人は入れてあり、いずれも三〇才ぐらいで余り面長でない顔型のものを選んであったこと

⑤  面割りが右のように遅れた理由は、乙山タクシーの専務と甲野会会長Eとが親しい関係にあったことから、右専務が「俺が話を付ける。」と激怒し甲野会側と交渉すると伝えたためAもその結果を待つつもりでいたこと(犯人が分からないという理由で犯人追求は打ち切られたようである。)及びその間警察からは何度か乙山タクシーを通じてAに対し呼び出しをしたが右専務の指示があったものか呼び出しのことがAに伝わっていなかったことにあること

⑥  面通しが前記のように遅れた理由は、昭和六一年八月当時被告人が受刑中であったため被害者に被告人側から圧力がかかる心配がなかったこと及び本件を担当した中警察署が他の事件で忙しかったため本件が後廻しになったことにあること

⑦  犯行直後警察ではA運転のタクシーから指紋を取ったとAが述べており、犯人が運転席ドアを開けていることから考え指紋は採取されたものと思われるが、その結果は明らかでないこと

⑧  警察では、面割りで被告人の名が出る前には、被告人以外の人物を犯人と想定していたこと

⑨  本件の捜査を担当したB証人は、外勤警察官の報告では被害者は初め犯人の背の高さを一七〇センチメートル位と言っていたように思うと述べていること

⑩  被害者のAは、本件前において被告人と面識がなく、殊更嘘を述べて被告人を罪に陥れるべき人間関係にはなかったこと

被告人、証人D、証人F及び証人Gの当公判廷における各供述並びに被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書、前科調書、各判決書謄本及び各略式命令謄本によると次の事実が認められる。

⑪  被告人は、昭和五五年頃Dの若い衆として甲野会に入ったが本件当時は甲野会会長の直参の子分になっていたのでDの若い者ではなかったこと、本件当時Dには舎弟がいるだけで直接の若い衆はいなかったこと、そのため甲野会におけるDの事務所当番を被告人らが行うことがあったこと

⑫  被告人は本件当時恐喝事件で裁判を受け保釈中であったこと

⑬  被告人の本件当時の頭髪はクールカット(スポーツ刈)と呼ばれる髪型をしていて、その長さも丸坊主になって約二か月半しか経ていず二センチメートル強程度と思われること

⑭  被告人の身長は、一五七・五センチメートルと一六〇センチメートルを切っており、Aとほぼ同じくらいの高さと思われること

⑮  犯行現場付近は被告人が飲酒遊興のため出歩く場所であり、また甲野会の活動地域であること

⑯  被告人は、本件の真犯人について知っているとか心当たりがあると言いながら、その名を明らかにすることを拒否していること

⑰  被告人の言動には誇張が多いので、その供述をそのまま鵜のみにはし難い面があること

⑱  被告人の検察官の尋問に対する喧嘩腰の応答及び前科前歴に鑑みると、被告人はかなり粗暴な人物と認められるので本件犯行の犯人が被告人であっても一向おかしくないこと

⑲  被告人には本件当時のアリバイがないこと

二  以上認定の事実のうち①乃至④、⑩、⑪の事実は直接的に⑮乃至⑲の事実は間接的に、それぞれ被告人が本件犯行の犯人であることを積極的に支持する事実であり、殊にそのなかでも②、③、④(その内特に被害者Aが自分の意思で積極的に被告人の写真を選び出し、面通しでも被告人を犯人と認定している事実)、⑩、⑪の事実は重要であり、これらの事実によると特段の事情のないかぎり被告人を犯人と認定して差し支えないものと考えられる。

他方被告人を犯人と認定することの障害となる事実としては前記認定事実のうち④(その内面割り及び面通しが遅れた事実)、⑤乃至⑨、⑫乃至⑭が考えられる。もっとも、⑨と⑭の関係については、被害者が運転席に座った儘の状態で一方的に暴行を受けたため犯人を実際よりも大きく感ずることは充分あり得ることであるから、被告人を犯人と認定することの決定的障害にはならないと考えられる。⑬の点も、頭髪が短く見えるという意味ではパンチパーマと共通であるからこれも決定的障害になるとは考えられない。⑫はさして重要な事実ではなく⑱をも考慮すると問題とするに足りない。⑦や⑧も、それに関する事情が詳らかでないので、それのみでは決定的障害になるか否かを断じえない。

三  ④乃至⑥の面割り・面通しの信頼性について検討する。

犯人が本当に甲野会のDの若い衆であって、面割りの写真の中にその若い衆が網羅されているのなら、犯人はその写真の中に必ずいるのであるから、面割りによる犯人の特定は充分に信頼できよう。しかし、本件では証拠上そこまでの認定はできないところである。

次に面割り・面通しが遅れた点について検討する。犯人の顔を正確に目撃した目撃者が目撃直後に他の暗示を受けない条件のもとで行った面割り・面通しは、決定的証拠価値を有する重要な証拠である。しかしながら、そのように言えるのは、目撃者が対象の同一性を他と識別しうる程度に認識し、印象し、判断し、しかもその同一性の認識・印象・判断が鮮明な間に他からの暗示を受けない条件及び情況のもとで面割りを行い、引き続き目撃による同一性判断が面割り写真による影響を受けない間に面通しが行われた場合であろう。何故なら、人間の認識自体が事実を百パーセント正確に把握することはないのが通常であるから認識の時点で誤認を含んでいる可能性があるうえ、時間の経過とともに人間の記憶は薄れたり、誤認部分を含む記憶の一部が誇張されて残ったりなどし、実際の認識と記憶の間に乖離が生ずることは避けられないところであり、殊に顔貌や体格等による人の同一性の認識判断は事件の経過や内容の認識(こういったものは時の経過に従った順序だった認識記憶に馴染む。)とは全く様相を異にしていて、単なる事実の認識ではなくそれを前提とする比較対照という判断作用が中心を占めているものであるから常に誤認の危険を孕んでいるばかりでなく、記憶の希薄化や記憶の一部の誇張化の生じやすいものであるからであり、又、面割りや面通しに際し提示された写真や人物による暗示も考えられるからであり(目撃者からの時間の経過とともにその危険が大きくなると考えられる。)、更に写真と実物が印象を異にすることも間々あることであるから、写真による面割りと実物の面通しの間に長い時間が置かれると面通しが(犯人の確認ではなく)写真の人物と面通しの対象の同一性の確認作業に終わりかねず写真の間違った印象による面割りの誤認がそのまま面通しに引き継がれる危険があり、面通しの独自の意義が失われる危険が存するからである。かように考えると、面割りや面通しは目撃後可及的速やかになされるべきであり、そうすることによって初めてそうした方法による犯人の同一性の確認がそれ独自の重要な証拠価値を有するのである。その反面、目撃後日時を経過してなされた面割り・面通しは、その経過した程度に応じ証拠価値が低下してゆくのである。そうすると、犯行後四か月を経ての面割り、更にその後八か月を経ての面通しは如何にも遅すぎるのである。即ち、Aが犯行当時に得た犯人の同一性に関する認識・判断の記憶をはたして四か月もその間そのまま正確に保有し、再現しえたかについては疑問を禁じえないのであり、そしてそれを前提にその八か月後になされた面通しに到っては目撃時の同一性の判断の確認としての意義を有するか首をかしげざるを得ないのである。これに⑨、⑬、⑭の点を勘案すると、被害者Aの面割り、面通しに拠る犯人特定の信用性については疑念を払拭しきれないところである。なおまた、③の内犯人の顔貌の特徴に関するAの供述についても、それが写真による面割り以前よりなされていたものか或いは面割り後になされるようになったものかが証拠上明らかでなく、⑧の点を斟酌すると或いは面割り写真の影響を受けて特徴なるものを述べているのではないかとの疑念も浮かばないではないのであって、この点でもAの供述を全面的に信用することに躊躇を感ずるのである。さらに、②の言葉が被告人の言葉として相応しいかどうかの疑問、⑦の指紋に関する疑問なども被告人が犯人であることの疑問として残るのである。

更に付け加えるならば、迅速な捜査によってこそ適切な証拠が収集されるとともに被告人の有効な弁解を聞き適切に防御権を保障することができるものであるところ、かかる観点より本件を見ると全く不適切な捜査であると言わざるをえないのである。即ち、本件では前記のように面割り・面通しが遅れ、然も被告人に対する取調べ(供述調書の日付から面通しのころと判断される。)も遅れているのであるが、かようなことでは犯人だと指定された被告人としては一年余前の自己のアリバイ等の主張や弁解も困難になり、自己が犯人ではないという立証などできない相談であるから、無実を晴らすのに窮することとなりかねないのである。然るに本件においては、面割り時において身柄を拘束されていた被告人の取調べは容易であったにもかかわらず、直ちに被告人を取調べその弁解を聞くことをせず、八か月もの間放置してあったのである。かかる措置は、被害者の供述の信用性を検討し担保するためにも又被告人の弁解を検討するためにも如何にも不適切なことと言わねばならないのである。かような不適切さのため、本件では被害者Aの供述の信用性を担保するための補充捜査がなされた形跡もなく、被告人も自己の当時の行動につき充分な弁解をなしえないまま終わっているのである。

以上の様な次第であるから、被告人が本件犯行の犯人であるとの嫌疑は強いものの、Aの面割り・面通しに拠る犯人特定に右のような疑問があること、Aの供述以外に被告人を本件の犯人であるとする直接証拠も情況証拠もなく、Aの面割り・面通しの信用性を担保すべきものがないこと、被告人が捜査当初から終始本件犯行を否認していること等に鑑みると、被告人を犯人であると断定するに足りるだけの心証を得るに到らなかったものというほかないのである。

四  結局、本件公訴事実については、犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官 笹本忠男)

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